タイトルは宮城谷昌光さんの小説「子産」の中から頂きました。
礼とは、宇宙の原理、原則だと考えて頂いてよろしいかと思います。
しかし礼の深淵の地にたどり着くのは非常に難しいものですね
■このブログで語られること
ここはそもそも黒羊の毒を吐き出す場所として、生まれました。 とりあえず、毒がいろんな方向に飛んでいきます。反日との戦いは継続中ですが、反日とは何かをまずおいおい研究していかなければなりません。少なくとも、日本の"サヨク"は、日本のためなんて考えていないと思います。 憲法9条は欺瞞だと思っており、実装に合わせて仕様を変更すべきだと思っています。 でも政治的や社会的な問題より、まず現実生活の問題点が多いですね。ということでよろしくお願いします。
■黒羊のお勧め

↑置いてみました。ぽちっとやってみて下さい。

告子曰、
「性猶湍水也。
決諸東方、則東流、
決諸西方、則西流。
人性之無分於善不善也、
猶水之無分於東西也。」
孟子曰、
「水信無分於東西、無分於上下乎。
人性之善也、猶水之就下也。
人無有不善、水無有不下。
今夫水、搏而躍之、可使過顙、
激而行之、可使在山。
是豈水之性哉。
其勢則然也。
人之可使為不善、其性亦猶是也。」
荀子の「性悪」
人之性悪。
其善者偽也。
今、人之性、生而有好利焉。
順是、故争奪生而辞譲亡焉。
生而有疾悪焉。
順是、故残賊生而忠信亡焉。
生而有耳目之欲、有好声色焉。
順是、故淫乱生而礼義・文理亡焉。
然則従人之性、順人之情、
必出於争奪、合於犯分乱理、而帰於暴。
故必将有師法之化、礼義之道、
然後出於辞譲、合於文理、而帰於治。
用此観之、然則人之性悪明矣。
其善者偽也。
とりあえずメモとして置いておきます。
ちなみに私は性善説を取りますと言ったところで、法治国家に存在しているのであれば、性悪説です。
荀子は、儒家ですが、弟子に韓非や李斯などの法家がおります。どういうことかと言いますと、孟子は、性善説を唱え、後天的努力なし、人は礼を志して学問をするだろうと言い、それに対し、荀子は、人の性は悪(欲望)だから、放っておいては、欲望のままになってしまう。だから学問して礼を志せと言う意味(物凄く簡単に言っちゃってますが本当はもっともっと深遠です。)であるため、実は性善説も、性悪説も、相対関係ではないです。
で法家は、荀子から学び取り、何をしたかと言うと「法を以って礼を補う」という考えを持ったわけです。つまり、儒家は法は無用、放っておいても人は礼に従うとしたのに対し、法家は、荀子の性悪説を盾に、法を以って補わなければ、礼に従わないと言うことを説いた。
秦の始皇帝は、韓非からそれを学んだわけであり、李斯はそれを実践したわけであります。
秦で律令体制の基礎を作ったのは、商鞅(荀子より前です。)であり、彼は貴族政治に一石を投じ、改革を断行します。しかし厳しくしすぎたため、また貴族の不満が爆発したため、志半ばで車裂きの刑で処刑されました。
それより前を辿ると、管仲や呉起が挙げられます。呉起の悲劇は、また商鞅と同じです。
管仲に関しては、「衣食足りて礼節を知る」の名文句でお馴染みであり、春秋時代最高の政治家と名高いです。ただし、孔子は、管仲の政治的な手腕は、認めているものの全体としては評価していません。
さらにその前に法家と位置づけるかどうかは難しいのですが、子産がいます。孔子が絶賛した人です。彼は、成文法を初めて行ったと言われる人です。しかし孔子は、管仲や、子産よりもっと鮑叔や子皮を褒めてます。何故か。「賢を薦めた」からです。
鮑叔は、管仲を斉の桓公に薦め、子皮は、子産を全面的にサポートし、その政治を成功させたからです。
話が大分逸れました。
歴史の中の思想としての法は、中国では子産から、明らかになったわけです。実際は法はあったのですが、貴族の頭の中にあったわけです。
思想として、徳治の意味に当たるわけですが、暗黙の了解で、破ってはいけない規則はちゃんと認識しとけということだったんです。
なので今徳治国家はないです。つまり、性悪説が性善説より合理性があったからでしょう。
礼の宇宙は以前のエントリで、宮城谷昌光氏の小説「子産」からとったと書きました。
おそらく多くの人は子産って誰だ?何だ?って思ったかもしれません。
簡単な年表を以下に置きます。
?~前522(定公8)中国春秋時代の鄭国の政治家。氏は国。諱は僑。子産は字。鄭の穆公の孫で,公子発(子国)の子。鄭では襄公のころより穆公に出自する七氏(七穆)が六卿の要職を独占した。子産は七穆の一つ,国氏の2代目という名門である。前563年(簡公3),西宮の難で父が暗殺され,前554年(簡公12)になって正卿の子孔が殺害されたのち卿に就任。前543年(簡公23),伯有の内乱ののち正卿に就任し,以後22年間にわたって鄭の国政を指導した。鄭は従来,晋・楚という南北両大国にはさまれ戦禍に苦しんだが,前546年(簡公20)に,晋楚弭兵が成立の子産は以後の相対的安定期に晋・楚との修好につとめた。国内的には領域内の郡鄙の支配秩序の再編,耕地の整理(〈田に封洫有らしむ〉),軍役の改革(〈丘賦を作る〉)など国勢回復につとめ,前536年(簡公30),中国初の成文法公開(〈刑書を鋳る〉)を行う。〈天道は遠し,人道は邇(ちか)し〉と政治と祭祀との一定の弁別を主張した点は孔子の宗教観の先駆として注目に値する。
紀元前のお話です。春秋時代に当たります。超大国に挟まれていたという点が、日本の置かれている状況になんとなく似ています。
超大国に挟まれ、戦禍だけでなく、時代は覇の時代です。この当時、今の歴史の分類では、春秋五覇の時代の後になります。
春秋五覇で有名なのは斉の桓公、晋の文公です。後は、歴史家の中でも意見が別れるところなので今回は割愛します。
覇とは、簡単に言うと尊王であり、武力を以って諸侯を治めるものであり、以下の項目に当てはまるものは覇者と呼ばれます。
他国を圧倒するにたる強大な国力。
諸侯を召集して会盟(国際会議)の会頭をつとめ、天下の事を取り決める。
小国を守り、滅ぼされた国の復興などをする。
夷狄を討ち、中原諸国の安寧に貢献する。
・・・・どこぞの国と同じですね・・・・。
子産の鄭という国は、正に覇を競う晋及び楚に挟まれた、苦しい国でした。小国は覇の国に貢物を出す、その代わりに守ってもらうのです。
子産が登場するまで、鄭は、時に晋につき、また楚につきとふらふらした、安定しない国情でした。当然国民は苦しんでおりました。
前546年(簡公20)に,晋楚弭兵が成立後、鄭は両国に貢物をしなければならなくなり、民の負担が一気に上がった、子産はそんな時代の人です。当時子産は、中華で最高の知識人であり、とても優秀であり、またとても民の事を考えた人でした。
孔子が最も尊敬した政治家でもあります。
子産は、民の事を考え、大規模な構造改革に着手します。そのために伝統を打破します。
当時、法はありました。しかし成文化されておらず、貴族の頭の中にのみあり、運用も彼らの都合で行われていました。
それを改め、成文法を公開しました。
当然内外の貴族、知識人から非難されます。
当時晋の英才羊舌大夫も子産に質問を投げかけました。要約します。
「法が万民に知らされれば、裏をかこうとしたりする者が現れ、モラルが低下するだろう。100年先には鄭は滅びるだろう。」と。
それに対し子産は、
「私は100年先の民より、今苦しんでいる民を救いたいのです。」さらに最後に「楽即能久」と答えました。私はこの最後の「楽即能久」と言う言葉が好きです。楽しまばすなわち久しからん。何事も楽しくやれば長続きする。ただし楽しむと言うのは、いろいろな意味があります。
今の意味で捉えていただいても十分通じます。
子産の政治により、鄭は富み、栄えることができました。
それが子産という人の概略です。
細かく語るととてもブログでは書ききれません、データベースが必要になってしまうので皆さんの好奇心の入り口になればと思います。
最後にそんな鄭ですが、子産の死後、約150年後に韓という国に滅ぼされてしまいます。羊舌大夫の予言が当たったわけです。
もっとも鄭が滅びるよりずっと前に、晋は、韓、魏、趙に分裂し滅びていますが・・・・・。