主張すべきことは主張する、いつでも毅然とそして礼節を忘れない国へ

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ご挨拶
■礼の宇宙について
タイトルは宮城谷昌光さんの小説「子産」の中から頂きました。
礼とは、宇宙の原理、原則だと考えて頂いてよろしいかと思います。
しかし礼の深淵の地にたどり着くのは非常に難しいものですね
■このブログで語られること
ここはそもそも黒羊の毒を吐き出す場所として、生まれました。 とりあえず、毒がいろんな方向に飛んでいきます。反日との戦いは継続中ですが、反日とは何かをまずおいおい研究していかなければなりません。少なくとも、日本の"サヨク"は、日本のためなんて考えていないと思います。 憲法9条は欺瞞だと思っており、実装に合わせて仕様を変更すべきだと思っています。 でも政治的や社会的な問題より、まず現実生活の問題点が多いですね。ということでよろしくお願いします。
■黒羊のお勧め




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中国、太平洋の東西分割提案か 米軍は拒否
17日付の米紙ワシントン・タイムズは、キーティング米太平洋軍司令官が最近訪中して中国軍事当局者と会談した際、中国側が、太平洋を東西に分割し東側を米国、西側を中国が管理することを提案したと報じた。米側は拒否したという。提案の詳細には触れていない。
 米太平洋空軍のへスター司令官は「空間を誰にも譲らないのが、われわれの方針だ」と記者団に述べ、西太平洋地域を米軍の影響下に置く必要性を強調した。
 米政府内の親中派の間では提案に前向きな受け止めもあったが、国防当局は西太平洋の覇権を中国に譲り渡す「大きな過ち」だと主張。日本などアジアの同盟国との関係を台無しにしかねないとして断ったという。(共同)
(2007/08/20 01:05)


時間はないかもしれない。中国が提案した前提として、
すでに日本は、我のものだと思っているのではないかとすら感じますね。
聞いたことがあるような話だ。
昔々、の昭襄王がのビン王に、中国を半分に分けて、西帝と東帝を名乗ろうと持ちかけ、王は受けた故事がありましたが、そっくりそのままですね。
受けたは、楽毅率いる連合軍に叩かれ、楽毅の燕に残り2城の滅亡寸前に追いやられたことを思い出します。

露骨な中国の侵略主義を糾すために、日本は改憲し、防衛力を上げ、隣の狼を牽制すべきでしょうね。
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孫武の続きです。
原文を貼ろうかと思ったのですが、バケラッタだらけになるので、「史記」の孫子呉起伝から略歴を書くにとどめます。
孫武の後100年後斉に孫ビンが現れます。元の名前は孫濱ではないかといわれています。
斉で兵法を学ぶのですがそこでホウ涓(ホウは广と龍)と学友となります。ホウ涓は、魏で仕官し、孫ビンを招きます。ここで史記は多くは語らず、ホウ涓が孫ビンの才能を嫉妬し、劣等感を抱いたという理由で、魏の恵王と共謀し、孫ビンを捕らえさせ、額に黥と言うのですが、入れ墨を入れ、足を切断する刑に処します。それから、膝頭の意味である「月賓」のビンという文字を名前にしたということです。
その後もホウ涓の管理下に置かれた訳ですが、ホウ涓を油断させ、隙を就いて斉の田忌将軍の手引きで斉に逃れます。そのまま田忌の食客となりました。
田忌将軍が斉の威王達と競馬をするということで、田忌に助言します。
「田忌将軍の馬は、上、中、下とあり、相手も同様に上、中、下があります。そこで、将軍は、相手が上の馬の時に下の馬を出し、相手が中の馬の時に上の馬を出し、下の馬の時に中の馬を出せばよい」と言いました。田忌将軍がその通りにすると見事2勝1敗で勝ちました。
その話もあり、斉の威王は、孫ビンを斉の軍師にしました。
ある時、魏が趙に攻め込み、斉は同盟国趙の救援に向かうことになり、田忌と孫ビンが行きました。趙に向かおうとする田忌に対し「魏本国を攻めるべきです」と助言し、見事魏軍を趙から撤退させた。(桂陵の戦い)
それから13年経ち、魏がホウ涓を将軍として韓を攻めたため、また田忌将軍と孫ビンが救援に向かいました。今度は、魏軍と直接対決になります。その時孫子の兵法がいかんなく発揮されます。すなわち、まず斉軍は魏軍襲来に対し、撤退を開始します。その時、宿営する度に竈の数を減らしていきました。これを見たホウ涓は、斉軍が潰走し、兵が脱走していると判断、追撃を急ぎます。最後は、孫ビンは待ち伏せしやすい場所を選択し、その森の真ん中の樹に「ホウ涓死于此樹之下」と彫らせ、ホウ涓が兵を率いてその樹に近づいたところを四方から矢を射って、ホウ涓を死に追いやりました。

「孫ビン兵法」を記したとされています。
私達が普段孫子の兵法と読んでいる13編とは違うものです。

史記卷六十五 孫子呉起列傳 第五   孫子武者,齊人也。以兵法見於呉王闔廬。闔廬曰:「子之十三篇,吾盡觀之矣,可以小試勒兵乎?」對曰:「可。」闔廬曰:「可試以婦人乎?」曰:
「可。」於是許之,出宮中美女,得百八十人。孫子分為二隊,以王之寵姫二人各為隊長,皆令持戟。令之曰:「汝知而心與左右手背乎?」婦人曰:「知之。」孫子曰:「前,則視心;左,視左手;右,視右手;後,□視背。」婦人曰:「諾。」約束既布,乃設鉄鉞,□三令五申之。於是鼓之右,婦人大笑。孫子曰:「約束不明,申令不熟,將之罪也。」復三令五申而鼓之左,婦人復大笑。
孫子曰:「約束不明,申令不熟,將之罪也;既已明而不如法者,吏士之罪也。」
乃欲斬左古隊長。呉王從台上觀,見且斬愛姫,大駭。趣使使下令曰:「寡人已知將軍能用兵矣。寡人非此二姫,食不甘味,願勿斬也。」孫子曰:「臣既已受命為將,將在軍,君命有所不受。」遂斬隊長二人以徇。用其次為隊長,於是復鼓之。婦人左右前後跪起皆中規矩繩墨,無敢出聲。於是孫子使使報王曰:「兵既整齊,王可試下觀之,唯王所欲用之,雖赴水火猶可也。」呉王曰:「將軍罷休就捨,寡人不願下觀。」孫子曰:「王徒好其言,不能用其實。」於是闔廬知孫子能用兵,卒以為將。西破強楚,入郢,北威齊晉,顯名諸侯,孫子與有力焉。

史記には上記のように簡単に孫武についての列伝が載っています。これを読むと兵法とはどういうものかということが分かります。
簡単に内容を説明すると、孫武は呉を訪れた際、呉王に孫武の兵法書は読んだが、実際に兵法を教えてくれと言われます。そこで呉王の後宮の美女180人を使って実演することになりました。美女を半分ずつに分け、呉王の寵愛している二人の美女をそれぞれ隊長に任命し、「前と言ったら、胸を見、左と言ったら左手を見・・・」と動き方を説明しました。そして1回目は美女達は大笑いして動かなかったため、「命令が行き渡らなかったのは将の非です」ともう一度動き方を教え、再度指示をすると、また美女達は笑って動きませんでした。そこで孫武は、「命令が行き渡らなかったのは将の罪であったが、既に明らかになっており、これは隊長の罪である」と持っていた鉞で隊長二人、呉王の愛妾二人を斬ろうとしたので、呉王が慌ててやめてくれと頼みました。「将、軍にあれば君命でも受けざるなり」と愛妾二人を斬ってしまいました。その後また指示を出すと、美女達は、きっちりと命令通りに動きました。
「王が命令してもその通り動きます。試しますか?」と孫武は報告し、王は「将軍は下がって休んでくれ」と言いました。
「王は徒にその言を好み、その実を用いることが出来ません。」
これで呉王は孫武を将軍として採用し、軍事において隆盛を極めることになった。
という話です。
この故事から、私は、人に何かを教えた後、教えられた人間が、一回ミスをした場合は、私の罪と思い、もっと丁寧に指導し、再びミスを犯した場合は、ペナルティを与えるという方針で仕事をしています。

この孫武が、世に名高い孫子の兵法を記した人間です。実は、その後に、孫ビン(月賓)が現れますが、それはまた別の機会に書きたいと思います。今の世では簡単に斬るということはありませんが、孫子の兵法は現代でも人の上に立つ時にはその統率力を発揮するためには十分参考になる書です。
中国の古代の思想のどの辺がすごいのかということもたまには書いていこうと思います。
周公旦という人がかつて、周にいました。
周の武王の弟に当たる人です。
太公望や召公セキ(夾の左右の人の部分が百)と並ぶ周建国の立役者です。孔子が尊敬し敬愛しやまなかった人です。(聖人としてあがめていた)
武王が、若くして亡くなった後、成王がまだ幼かったため召公と共に補佐しました。
周公旦は礼学の基礎を作った人物とされ、周代の儀式や儀礼について書かれた"周礼"、"儀礼"を記したと言われています。

さて周公旦を突然出したのは、この前のエントリで、晋について唐叔虞が封ぜられたと言及したからです。その当時を知る上で、周公旦ははずせない人物です。

先に周の武王は若くして亡くなったといいましたが、継いだ、成王はまだ幼く、周公旦達が補佐したと述べました。
成王が成人すると、周公旦は、政権を返して職務に戻りました。補佐している間、実は周公旦が王位に就いたという説もあります。
この政権を返すことが、大政奉還・・・・即ち、幕末の日本に影響を与えたわけですが。

唐叔虞については以下のような逸話があります。
成王が弟の叔虞と庭で遊んでいました。その時に枝を取って、「これを以ってそなたを封じよう」と封建ごっこをしていたのです。
この事実は、史官によって記録されました。当時、その後も、史官は重要な役割をしています。また、彼らは、主観ではなく客観的に事実を記載し、君主の命令でも、一度書いた事実を削除することはありえなかったのです。(あくまで模範例で、当然捏造を許す史官もいたとはおもいます。)
宰相が、宮殿でそのことを知り、「叔虞を何処に封じますか」と聞いたので、成王は、「私は弟と遊んでいただけだ」と答えました。
宰相は「天子に戯言なし。王が一度発した言葉は、覆すことができない。」と答え、周公旦が唐を討って帰ってきたので、改めて叔虞を唐に封じました。

「天子に戯言なし」この言葉は天子の責任の大きさを端的に表した言葉です。天子は大きな権力があるわけですから、その言葉に嘘やまやかしが含まれると誰も命令を聞かなくなるわけです。

では、庶民には、その言葉に責任は伴わないのかと言うとそんな事はないわけで、全ての人は自ら発した言葉に、責任を持つべきです。言論の自由もその裏には責任が伴われていて当然だと思います。

ところで、周公は魯に封じられました。しかし、国政を預かる身の上のため、長男の伯禽を行かせました。孔子が生まれた国はその魯です。
今回は、と出身地を絡めて書きます。
前回失敗したのですが、
日本語では"かばね"と言います。古代中国では、にあたります。
日本語では"うじ"と言います。古代中国ではに当たります。
で私は古代中国の意味でと書きますのでそれは母体の部族集団を指す名前であると理解してください。
ちなみには既に漢の時代には中国でも混同されています。
中国で二字のは、少ないですがいくつかあります。
日本人も親しんでいる二字は諸葛がありますね。
元々この名前は、葛だったと言われます。全国に葛がいっぱいいたのでそれと区別するために、諸という地域にいた葛氏が諸葛氏を名乗ったのが始まりと言われています。
つまり諸葛一族のルーツは諸と言う国(地域)にあると言うことが分かります。

魏という苗字の人がいます。この苗字は、地名から来ています。春秋時代に晋の国に来た畢萬が晋の献公に魏に封ぜられてから、魏氏を名乗るようになりました。畢萬はそもそも畢公高の子孫であり、畢公高は周の文王の息子で、武王の弟に当たるのでは、"姫"です。高という武王の弟が、畢という地に封ぜられたので畢公高と呼ばれ、畢を氏にしていたと言うことです。
また晋も始祖は唐叔虞で、周の成王の弟、周の武王の息子です。なので姓は"姫"です。元々は唐という地に封ぜられたのですが、後に国名を改め晋としたわけです。
晋は後に、韓、魏、趙分かれます。
魏は、既に述べたように"姫"姓で、韓も晋の一族から分かれて発生していますので、"姫"姓です。
趙だけが異なり、秦と同じ"エイ"です。
それぞれ氏は韓、魏、趙氏を名乗ります。
(続く)
さららさんのところのコメントで、名前が出てきたので関連して書いて見ます。

中国では、が先でが後なので、日本とは逆ですね。といっても、日本で言う所の中国では中国ではなだけですが。
は、血縁集団を表しているのですが、女偏なので、古代の中国は母系集団だったのではないかと言われます。
もっと細かく言うと、代表的な
姫→周王朝の王家
姜→太公望を出した羌族
女以(女偏に以"じ")→夏王家の
子→商(殷)王家の姓
などがあり、女偏の姓が多いことからも、それらの姓は元々は母系部族だったのではないかと伺えます。
それに対し族としてのがあるわけですが、
地名だとか、官職などから作られます。
日本でも同じように、時代が下ると姓との関係は曖昧になっていき今では消滅しています。
儒教では同姓の結婚を認めないわけですが、それは姓です。
なので周王室に魯や晋などの同じ姫姓家との婚姻はいけないわけです。
未だに華僑や、華人や朝鮮人では同姓の婚姻が認められないのですが、(法律で禁止されてるかどうかはしりません)、古い時代の習慣を踏襲しているわけです。しかし既に姓や氏といったボーダーがないので、どれほどの意味があるのかはわかりません。
例えば何度も取り上げている子産ですが、
姓は姫、氏は公孫、名前が喬で、字が子産ですが、鄭の穆公の孫なので、氏は公孫となっています。しかし、子産の家は国氏とも言われていますので氏として国を挙げることも出来ます。(子産の父親の公子発、座あざなは子国なので国氏)
つまり子産を姫喬とも公孫喬とも国喬とも呼べるわけですね。
で同じ氏が公孫であっても、例えば宋(子姓)や斉(姜姓)の国の公孫であれば、婚姻は認められるわけです。
ちなみに、
中国の古代でややこしいのは、諱と字ですね。諱は、親や、目上や、身分が上の人しか呼べない。普通は、字を呼びますね。
例えば
諸葛亮孔明は諸葛が氏、亮が名、孔明が字です。彼は蜀の丞相になったわけですが、劉備や、劉禅しか彼の名を呼べないわけです。
劉備玄徳も備が名で、玄徳が字になるわけです。
しかも字と名前には関係があることが多いです。
例えば、亮は明るいという意味ですので、孔明の字は孔だ(はなはだ)明るいです。劉備玄徳も徳を備えるということです。
また曹操孟徳の字の孟というのは最初と言う事ですから、彼が長男であることがわかります。
後は伯仲叔季が字に付いていれば、4人兄弟の何番目かがわかります。
姜維伯約なら、姜維は長男。
司馬懿仲達であれば、次男。
夏侯称叔権であれば、三男
劉邦季であれば、四男。
と推測できます。ところで劉邦についてですが、もちろん漢の高祖であるのですが、邦は、アニキくらいの意味しかなく、季も単に末っ子って意味しかないため、実は名前がないわけです。(親につけてもらえていない。)
次回は、苗字と出身地について考察してみます。
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