主張すべきことは主張する、いつでも毅然とそして礼節を忘れない国へ

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周公旦という人がかつて、周にいました。
周の武王の弟に当たる人です。
太公望や召公セキ(夾の左右の人の部分が百)と並ぶ周建国の立役者です。孔子が尊敬し敬愛しやまなかった人です。(聖人としてあがめていた)
武王が、若くして亡くなった後、成王がまだ幼かったため召公と共に補佐しました。
周公旦は礼学の基礎を作った人物とされ、周代の儀式や儀礼について書かれた"周礼"、"儀礼"を記したと言われています。

さて周公旦を突然出したのは、この前のエントリで、晋について唐叔虞が封ぜられたと言及したからです。その当時を知る上で、周公旦ははずせない人物です。

先に周の武王は若くして亡くなったといいましたが、継いだ、成王はまだ幼く、周公旦達が補佐したと述べました。
成王が成人すると、周公旦は、政権を返して職務に戻りました。補佐している間、実は周公旦が王位に就いたという説もあります。
この政権を返すことが、大政奉還・・・・即ち、幕末の日本に影響を与えたわけですが。

唐叔虞については以下のような逸話があります。
成王が弟の叔虞と庭で遊んでいました。その時に枝を取って、「これを以ってそなたを封じよう」と封建ごっこをしていたのです。
この事実は、史官によって記録されました。当時、その後も、史官は重要な役割をしています。また、彼らは、主観ではなく客観的に事実を記載し、君主の命令でも、一度書いた事実を削除することはありえなかったのです。(あくまで模範例で、当然捏造を許す史官もいたとはおもいます。)
宰相が、宮殿でそのことを知り、「叔虞を何処に封じますか」と聞いたので、成王は、「私は弟と遊んでいただけだ」と答えました。
宰相は「天子に戯言なし。王が一度発した言葉は、覆すことができない。」と答え、周公旦が唐を討って帰ってきたので、改めて叔虞を唐に封じました。

「天子に戯言なし」この言葉は天子の責任の大きさを端的に表した言葉です。天子は大きな権力があるわけですから、その言葉に嘘やまやかしが含まれると誰も命令を聞かなくなるわけです。

では、庶民には、その言葉に責任は伴わないのかと言うとそんな事はないわけで、全ての人は自ら発した言葉に、責任を持つべきです。言論の自由もその裏には責任が伴われていて当然だと思います。

ところで、周公は魯に封じられました。しかし、国政を預かる身の上のため、長男の伯禽を行かせました。孔子が生まれた国はその魯です。
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