主張すべきことは主張する、いつでも毅然とそして礼節を忘れない国へ

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孫武の続きです。
原文を貼ろうかと思ったのですが、バケラッタだらけになるので、「史記」の孫子呉起伝から略歴を書くにとどめます。
孫武の後100年後斉に孫ビンが現れます。元の名前は孫濱ではないかといわれています。
斉で兵法を学ぶのですがそこでホウ涓(ホウは广と龍)と学友となります。ホウ涓は、魏で仕官し、孫ビンを招きます。ここで史記は多くは語らず、ホウ涓が孫ビンの才能を嫉妬し、劣等感を抱いたという理由で、魏の恵王と共謀し、孫ビンを捕らえさせ、額に黥と言うのですが、入れ墨を入れ、足を切断する刑に処します。それから、膝頭の意味である「月賓」のビンという文字を名前にしたということです。
その後もホウ涓の管理下に置かれた訳ですが、ホウ涓を油断させ、隙を就いて斉の田忌将軍の手引きで斉に逃れます。そのまま田忌の食客となりました。
田忌将軍が斉の威王達と競馬をするということで、田忌に助言します。
「田忌将軍の馬は、上、中、下とあり、相手も同様に上、中、下があります。そこで、将軍は、相手が上の馬の時に下の馬を出し、相手が中の馬の時に上の馬を出し、下の馬の時に中の馬を出せばよい」と言いました。田忌将軍がその通りにすると見事2勝1敗で勝ちました。
その話もあり、斉の威王は、孫ビンを斉の軍師にしました。
ある時、魏が趙に攻め込み、斉は同盟国趙の救援に向かうことになり、田忌と孫ビンが行きました。趙に向かおうとする田忌に対し「魏本国を攻めるべきです」と助言し、見事魏軍を趙から撤退させた。(桂陵の戦い)
それから13年経ち、魏がホウ涓を将軍として韓を攻めたため、また田忌将軍と孫ビンが救援に向かいました。今度は、魏軍と直接対決になります。その時孫子の兵法がいかんなく発揮されます。すなわち、まず斉軍は魏軍襲来に対し、撤退を開始します。その時、宿営する度に竈の数を減らしていきました。これを見たホウ涓は、斉軍が潰走し、兵が脱走していると判断、追撃を急ぎます。最後は、孫ビンは待ち伏せしやすい場所を選択し、その森の真ん中の樹に「ホウ涓死于此樹之下」と彫らせ、ホウ涓が兵を率いてその樹に近づいたところを四方から矢を射って、ホウ涓を死に追いやりました。

「孫ビン兵法」を記したとされています。
私達が普段孫子の兵法と読んでいる13編とは違うものです。
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