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主張すべきことは主張する、いつでも毅然とそして礼節を忘れない国へ

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【正論】秦郁彦 東条宰相「復権」は慎重に判断を
 ■天皇の信任、前半厚く後半逆転
 ≪むずかしい歴史的な評価≫
 「(歴史認識は)後世の歴史家に委ねる」という安倍新首相の「あいまい戦略」は野党やマスコミには不評らしいが、私はこの戦略に賛成だ。願わくば、中韓をふくめどの国の首脳も同じ方針をとってもらいたいと思う。
 では歴史家たちの甲論乙駁(おつばく)に任せたら統一見解や総括が期待できるかとなると、その保証はない。明治維新の性格とか第一次世界大戦の原因論でさえ定説が固まったとは言えないから、第二次大戦の責任論はなおさらのこと。
 事実より党派性を先行させる声高な歴史家が少なくないから、歴史論争はいっこうに噛みあわない。残念ながらこの前の戦争を総括できる環境は整っていないので、首相が後世のと条件をつけるのもやむをえないだろう。
 人物論となればなおさらで、棺を閉じて100年が過ぎても評価の定まらぬ例は珍しくない。では戦時下の宰相で、A級戦犯の筆頭だった東条英機の評判はどうか。
 終戦時、私は13歳の少年にすぎなかったが、東条に向けられた国民の怒りはまざまざと覚えている。その軸になっていたのは、東条陸相の名で伝達された「戦陣訓」が「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」を強調したため軍民の大量死を招いたにもかかわらず、本人は自決に失敗して、捕らえた米兵の輸血で蘇生したことへの反発だった。
 ≪当初は国民の高い人気も≫
 東京裁判に臨んだ彼の堂々たる国家弁護ぶりはそれなりに評価されたが、「名誉回復」には至らぬままにすぎてきた。ところが、ここ数年とくに昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀に「不快感」を示したとされる富田メモの出現を契機に、東条の「復権」をめざす動きが出ている。
 そのさいに引用されるのが「東条は一生懸命仕事をやるし、平素言ってゐることも思慮周密で中々良い処があった」(『天皇独白録』)とか「彼程朕の意見を直ちに実行したものはない」(木下侍従次長の『側近日誌』)のような終戦直後の天皇発言である。つまり東条を高く買っていた昭和天皇が、A級合祀に異議を唱えるはずはないというのだ。
 しかし引用個所の前後には「憲兵を余りに使ひ過ぎた」とか「(東条を)弁護しようと云ふのではない」という発言もあるのを見落としてはならない。あくまで条件付きの評価なのだ。
 昭和天皇の人物評価は辛口調とはいえ、公平さという点には定評がある。東条の場合も、「グズ元」とか「ぐったり大将」と呼ばれた杉山元参謀総長と永野修身軍令部総長に比べ能吏ぶりが光ったともいえる。概して政権の前半は天皇の信任も厚く国民にも好評だったが、後半は逆転したとみてよいだろう。
 サイパン失陥を機に和平派の重臣が倒閣に動き、岸信介国務大臣が憲兵の脅迫にもかかわらず辞表提出を拒否したため、3年近くつづいた東条内閣は瓦解した。東条は天皇からも見放されていたのを知りつつ、なおもしがみつこうとしたが、側近が進言したクーデター構想にはさすがに乗らなかった。
 ≪不信から「誤解」生まれた≫
 半年後、和平を模索しはじめた昭和天皇は個別に重臣を呼んで収拾策を尋ねたが、東条は「陛下の赤子(せきし)なお一人の餓死者ありたるを聞かず」と開き直り、戦局は「今のところ五分五分」だとして、徹底抗戦を主張した。侍立した藤田尚徳侍従長は「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」と記録している。
 終戦はそれから半年後のことだが、ガダルカナル、ニューギニア、レイテ、インパール戦など戦陣に倒れた約230万の兵士のうち、広義の餓死者は私の試算で60万に達する。内外の戦史に類を見ない高比率だ。天皇が不満どころか、不信の思いをつのらせたとしてもふしぎはない。
 終戦直後の1945年9月27日、昭和天皇は占領軍総司令官マッカーサー元帥と会見した。アチソン政治顧問の公電によると、天皇は「開戦通告の前に真珠湾を攻撃したのはまったく自分の意図ではなく、東条のトリックにかけられたからだ」と述べながらも「しかし、それがゆえに責任を回避しようとするつもりはない」としめくくった。
 事前通告をやるようにと念押ししていたのに、「だまし討ち」になってしまったのは、実は事務上の手落ちだったのだが、天皇には報告されていなかった。東条への積もる不信のなかで、この「誤解」が生まれたのも無理はない。
 つけくわえると、天皇を訴追しないという連合国の方針は東京裁判の開廷(46年5月)前に確定していた。(はた いくひこ=現代史家)
<産経新聞>


今回の予算委員会は、首相の歴史認識を、野党がよってたかって問いただすと言う異常な状態で、一国民の私も、野党の質の低さに辟易したのであります。
さて上の記事ですが、南京事件等の考察で有名な秦郁彦氏の話です。
読んでいてふと思ったんですが、歴史家は、ある確定的且つ絶対的な歴史認識を持つことはないのではないでしょうか?
古代の中国で、史官が置かれました。彼らの仕事は、君主の言葉を一字一句漏らさず記録することであります。
つまり一次情報の積み重ねのみですね。
歴史家の仕事は、おそらく、事実のみをそのまま記載するだけで、あれが正しかった、あれは悪かったということは判断しないと思います。
判断するのは、当時であれば君主であり、今であれば、民であります。
周の武王が亡くなり、子の成王が継いだわけですが、ある時弟の叔虞と遊びました。庭の木の枝を使って「これを持ってお前を封じよう。」と封建の儀式の真似事をしたのですが、このことを史官は記録しており、宰相が、成王にどちらの地に封じますかと聞くので成王はあわてて、「私はあれと遊んでいただけだ」と言いました。それに対し、「天子に戯言無しです。王が一度発した言葉は覆す事はできません。」と宰相はいい、叔虞を唐の地に封じることになりました。
これを見ると、史官の仕事と言うのは、一次情報を正確に記録するだけです。すなわち歴史認識は、歴史家も委ねられてもどうしようもないのではないかと思うのですが?
東条さんの件にしても天皇が、信任していたか、信任していなかったか、それってそんなに重要なんですかね?東条さんについて問題になっているのは、戦犯であることですが、国内法では戦犯ではないわけで(裁判をしていないです)、こと復権に関しては、天皇でも首相でも歴史家でもなく、国民が決めるべきことでしょう。
ちなみに、大戦の責任を東条さん、他A級戦犯にされた方々だけに押し付けるのは、おかしいと私は思います。
朝日新聞などのメディアの責任もすごく大きいし、それに煽られた愚民、つまり我々の責任も大きいです。この事を考えると、東条さんは私達愚民の代わりに従容として死刑に服したのであり、私達はむしろ感謝すべきではないでしょうか?
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コメント
この記事へのコメント
件の文章は私も昼過ぎに読んだのですが、秦さんは東條首相に対し比較的厳しいご意見をお持ちなので、昨今の再評価論に反論する意味合いがあったと思います。
東條大将の評価はある程度歴史家にゆだねられるべき問題だと思いますが、現在に生きるわれわれも何らかの価値観を持っていてしかるべきだと考えます。

私としては彼が逮捕時に自殺未遂をしたときの遺書の最後にある
「日本青年諸君に各位。国家最後の望は繋りて一つに各位の頭上にあり」と言う一文に深い感銘を覚えました。
これは当時の青年のみならず、今を生きる我々にも課せられた希望だと思います。
この期待に、自分なりに応えたいですね。
2006/10/16(月) 00:34 | URL | miracleさん #8pseZ2BU[ 編集]
鳥之将死、其鳴也哀
人之将死、其言也善
曾子の出展ですが、ミラクルさんさんの仰るように、
「日本青年諸君に各位。国家最後の望は繋りて一つに各位の頭上にあり」この言葉は、「人の将に死なんとす、其の言や善し」であり、私も期待に答えたいと思う一人です。
2006/10/16(月) 19:20 | URL | 黒羊 #-[ 編集]
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